送交者: 笑笑 于 2005-10-20, 16:57:09:
回答: 没有直接的日方资料,这里是间接的引用,来自日军防卫厅防卫研究所战史室 由 虎子 于 2005-10-20, 16:34:29:
7月下旬となり、攻撃再開の準備は整えられた。
7月30日 軍は攻撃命令を下達、軍司令官自ら衡陽に進出し
「今度こそは」の決意に燃えていた。
8月 4日 第68師団は衡陽南部に対し、第116師団は衝陽
西南陣地に対して第三次攻撃を開始した。
8月 5日 第58師団は主として衡陽西北に対し、第13師団は
湘江東岸地区から第68師団を支援してこれに続いた。
しかし支那軍の抵抗は頑強であり、第3次攻撃をもってしても攻撃
は進展しなかった。第13師団は一部の兵力を強行渡河させ第58
師団に協力したが、損害が続出、師団砲兵の弾薬も欠乏してきたの
で軍命令により攻撃を中止し、牽制を任じた。その中で南部では第116師団が敵線の一部を奪取、第58師団も西北角の奪取に成功、初めて市街の一部に進入した。
8月 7日 全線において攻撃を復行したが依然攻撃は進展しなかった。なお数日攻撃を要すると判断していたところ第68師団正面の敵小部隊が投降してきた。軍は敵は動揺しているもの判断し、攻撃を続行した。
8月 8日 敵軍長(軍司令官) 方先覚将軍以下師団長4名が投降、以降投降するものが続出した。敵の一部はなおも抵抗を継続を
したが、0800ころまでには掃討を終了ここに衡陽の攻略を終えた。
6月28日の第1次攻撃開始から実に40数日目であった。
◆戦果・損害◆
戦 果 遺棄死体 4100名以上
捕 虜 13300名
捕獲兵器 各種砲110門
戦車装甲車10両
損 害 戦 死 3860名
戦 傷 8327名
戦 病 19288名